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ここひろブログ

私たちは東京都青梅市、羽村市で在宅介護を中心とした介護サービスを展開しています。また、地域で暮らし続けることができる社会を目指し、グループホームや小規模多機能型居宅介護、そして一般家事代行などを手がけています。
<地域ケアサポートステーション ここひろ青梅>
訪問介護・居宅介護支援・福祉用具販売・貸与
<ライフサポートステーション ここかじ>
一般家事代行
<地域ケアサポート館 福わ家(ふくわうち)>
小規模多機能型居宅介護
認知症対応型共同生活介護(グループホーム)
<地域ケアサポート館 福ら笑(ふらわー)>
小規模多機能型居宅介護
認知症対応型共同生活介護(グループホーム)
2020年5月 井上信太郎より
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    「コロナ」にも負けず

     

    新型コロナウイルスにより皆様の生活に多大な影響を及ぼしておられるのではないかと心配しております。弊社サービスも一部、自粛のご協力をいただいておりご不便をおかけしております。一刻も早くこの不安が取り除かれる日が訪れることを祈念しております。

     

    コロナ戦争とまで言われるこの一大事。いま私たちが考えなくてはいけないのは何なのでしょう。

    この新型コロナウイルスは生物*1として非常に優秀で、それほど強い毒性を持たず知らず知らずのうちに人の体の中で増殖を繰り返し、あっという間に世界中に広めることに成功しました。成功とは不謹慎な言い方ですが、この地球上に存在する何らかの生物と思えば優秀であることは間違いないでしょう。地球上には様々な生物が存在するのだけれど、その頂点に立つ人間はあらゆる生物体系をコントロールしてきたので、この度コントロールしきれなかった新型コロナウイルスに慌てふためいてしまったのではないでしょうか。あらためて思うことはやはり人間はこの地球に生かされているということ。人間が強いかウイルスが強いか、それを戦争と称して闘うことを否定はしませんが、そもそもは地球という環境の中に、私たちが存在させてもらっているということを忘れてはならない気がします。いま、このウイルスによって私たちは思いがけない苦境を強いられています。外出自粛、3密の回避等、これまで経験をしたことのないような境遇ですよね。そんなとき私たちはしばしば、不安なことや不満なことばかりに目が行きがちで、自分は不幸な人間であるという錯覚にまで陥ることだってあります。そんな時僕はある本を思い出すのです。それは「顔ニモマケズ:水野敬也 (著)」です。水野さんが、醜形恐怖という外見への執着に悩まされていた経験から、見た目に傷やアザなどの症状を持つ方たちにインタビューし、問題をどのように克服していったかを学んでいったことを書籍としたものです。登場人物の中島勅人さん、リンパ管腫という左右非対称の顔面を持った方はこう述べられています。

     

    「私はこの症状を完全に受け入れたわけではありません。今でも『どうして自分の顔は左右対称じゃないんだろう』と思うことはあります。でも、ベストコンディションではない状態で、それでも何とか前に進んでいく。すると、いつの間にか進むことに夢中になっていて、顔の問題が消えていることに気付くのです」

     

    また、マラソンという夢中になれるものと出会えた中島さんは東京マラソンに参加した際、次のようにおっしゃられます。

     

    「ベストコンディションではない状況を『与えられた環境』ととらえる。走り続けるために必要なことは、その時その時を受け入れるしか術がなく、どう受け入れようかを考える過程で夢中になってゆく。環境のせいにして、自分で負けたレースを積み重ねて気づいたこと。根性も、気合もいらない。素直に走るだけ」

     

    人は見た目の印象が8割にも及ぶとまで言われていて、見た目にインパクトのある中島さんは子供のころから深く傷つきながらの人生ではあったけれど、もマラソンという夢中になれるものと出会い、生きていく術を見つけることができました。

    新型コロナウイルスによる緊急事態宣言が下された今、まさにベストとは言えないコンディションではあるけれど、いろいろなことに不満を持ったり傷つくよりも、あの明石家さんまさんが言ったように「生きてるだけでまるもうけ!」のような精神でこの苦境を乗り越えていくのも一つの手ではないでしょうか。

     

    医療介護業界において、緊迫した状況が報じられております。弊社スタッフも大きな動揺の中にありますが、目の前の利用者のために逃げずに真摯に向き合っている姿が見られます。一人一人のスタッフが地域生活支援の担い手であるということへの自覚が芽生えているようで、とても心強いです。また、ご家族並びに関係者の皆様より数々のねぎらいを頂戴し深く感謝いたします。

     

    *1ウイルスは、「それ自身が十分な代謝系をもたないため、宿主細胞がなくては自立増殖することができない」ため、生物か非生物かについて主張が分かれている。

    | 心のひろば | 井上信太郎より | 13:04 | comments(0) | - |
    2020年4月 井上信太郎より
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      原点回帰 タケルさん(仮名)と 最終回

      ※実際の出来事をそのまま書きましたので少々ショッキングな表現があります。

       

      それは僕が特別養護老人ホームの日勤者としていつも通り今日も頑張ろう!と気を引き締めている最中のことだった。向こうの方から厳かな朝にはなんとも似つかわしくない、叫び声のような声が聞こえてくる。耳を傾けると「しんたろうさーん、タケルさんが倒れてる!」と言っている。慌ててタケルさんの居室に駆け付けるが、タケルさんはベッドの横の床に伏せた状態、すでに人としての「生」を感じない、その姿は瞬間的にもう何をしても無駄だということを理解させるものでした。だけどあまりに突然の出来事過ぎて僕の気持ちがそれを受け入れようとしない。横たわるタケルさんの姿勢を正し、人生で2度目の心肺蘇生を施しました。ありったけの気持ちで「どうか戻ってきてほしい」「生き返れ!」と声をかけるのだけれど、そんな呼びかけには当然のごとくタケルさんは答えてくれない。だんだんと悔しさがこみ上げてくる。やっと一緒に外出することが出来るのに、あんなに喜び合ったのに、なんで一度も叶えさせてくれなかったのか...と。間もなくして医療者が到着し、僕の整理のつかない感情をよそに、あっけなく死亡の確認が行われてしまった。時が止まったかのように呆然と立ち尽くす僕。だけれどその横では今後の対応という事務的な話し合いがあり、フロアリーダーとしては当然その話の流れについていかなくてはならないわけですが、僕の心はひどく乱れ、まともに話し合いに参加することができそうもない。そしてなんと僕は、その話し合いの場を捨てて施設内の宿直室に逃げ、閉じこもってしまったのです。

      「コーヒーを自宅で飲みたい」こんな当たり前のことを実現できないのはなぜか、誰の問題なのか。僕に別れも告げずに急に逝ってしまったタケルさんのせい?いや、タケルさんは被害者に過ぎない。ではすぐに実現させてくれなかった上司が悪いのか、いや、そもそもタケルさんから相談を受けたのは僕であって上司ではない。快く手放しで許可をしてくれたわけではないが、しつこい僕に付き合ってくれた。結果、僕のような若造を信じ、事業所のリスクを承知の上でともにチャレンジしようとしてくれたのだ。電気もつけない宿直室の中であれこれやり場のない後悔を抱えて悶々とする中で、僕はあることに気が付いてしまったのです。それは「すべての責任は僕にある」ということを。

      介護は人の人生に寄り添う仕事、だからこそ楽しいのだと思っていたし、そのことを大切にしたいと思い続けてきた。だけどたくさんの人に寄り添っていると「一人の人として観る」ことの大切さを忘れてしまう。僕にとってタケルさんは、当時担当する入居者「50人の中の一人」に過ぎなかった。この考え方こそが、僕が犯してしまった罪。「50人の中の一人」となれば、やることは50通りのニーズに優先順位をつけること。タケルさんの「コーヒーを自宅で飲みたい」ということで言えば、当時の僕は日々ルーティーン業務をこなすことでいっぱいいっぱいだったから、優先順位の低いコーヒーの件は後回しで、自分の気持ちに余裕があるときだけ上司や同僚にアプローチしていた。だから無駄に時間を浪費し、約半年もの期間をかけてしまうこととなったのだ。そして迎えた突然の別れ。人の命は永遠ではないんだ、元気そうに見えても別れは突然にやってくる。先日の志村けんさんとの別れも、とても辛く国民が泣いた日だった。誰もが、まだお若いのにとか病気を恨んだりするが、命の期限など誰にもわからない、そしてその期日は突然に訪れるものだ。本人の望む支援に優先順位などをつけ、後回しな日々をおくっていたら、目の前の大切な人はある日あっという間に逝ってしまわれる。命を大切にするということの意味は、「今」を大切にすること。これらはタケルさんが自分の命を犠牲にして僕に教えてくれたことです。

      僕にとっての原点回帰、それはタケルさんの夢に自分の夢を重ね、「コーヒーを自宅で飲みたい」の実現に向けて頑張った姿ではなく、実は突然訪れたタケルさんとの別れの日、あの暗い宿直室の中で自分の介護職としての専門性を鏡に映し、自分自身を顧みたところにあるのです。タケルさんごめんね、「コーヒーを自宅で飲みたい」この願いを実現できなかったのはぼくの真剣さが足りず、すぐに行動しなかったからです。最終回にもかかわらずこんな悶々とした独りよがりな締めで大変恐縮です。でも、僕が意外とネガティブで挫折が多かったせいか、わが社の愛するスタッフたちはすこぶる元気。一つ一つの命に対して精いっぱいの愛で「今」何ができるかを考えてくれています。あの名言が思い浮かびます、個人的にはぼくの方が先?(笑)だと思っているのだけれど。そう、『いつやるか? 「今」でしょう!』

      | 心のひろば | 井上信太郎より | 13:53 | comments(0) | - |
      2020年3月 井上信太郎より
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        原点回帰 タケル(仮名)さんと2


        特別養護老人ホーム(以下特養)で暮らすタケルさんの、「自宅で、自分で淹れたコーヒーを飲みたい」の実現に向けて動き出すことにした僕。タケルさんの自宅は特養からわずか100メートルの距離、住み慣れた街のなかでの移動だから道のりに不安はなさそう。歩行についても日頃杖もつかずにすたすた歩くことができるので段差などに気を付ければ問題はなさそう。しかしそこはやはり施設入居者という肩書がある以上、万が一に備えなくてはならない。何よりも気を付けなければならないことは、タケルさんは心臓に疾患をもっているということ。出先で発作が起こらないとも限らないわけで、やはり誰かの付き添いが必要となる。ではだれが付き添うべきか、そこはやはり僕が付き添えばいい。僕もタケルさんの淹れたコーヒーをタケルさんの自宅で飲むということに興味があったし、タケルさんもきっと僕と飲むことを望んでいるだろう。この仕事は人生に寄り添う仕事、僕がそばにいることで利用者が幸せを感じ、喜んでもらえるならば、それは介護職として本望なのです。そして自分の休みや夜勤明けの時間を利用し、ほかのスタッフにも迷惑をかけないような配慮もすれば実現できるのではないだろうか。そんなことをイメージしながら若干25歳、多分計画は節穴だらけなのだろうけど、タケルさんの喜ぶ顔を目に浮かべ意気揚々と上司に相談しました。

        しかし結果はあえなく却下。口々に「何かあったらどうするの?だれが責任を取るの?」と。まして職員のプライベートな時間を利用するなど言語道断であり不謹慎、まるで僕がタケルさんをたぶらかしたのではないか、などの疑問まで持たれる始末。計画の立て方やプレゼンがしょぼかったのは事実だけど、自分が何か悪いことでもしたかのような気持ちになったことはとても辛くて、すっかり仕事のモティベーションが下がってしまいました。

        この「何かあったらどうするの?」という言葉、なにか脅し文句のよう。なにが起こるかすべてのリスクを考えなさい、そしてその対策についても考えなさいと言われているのと同じ。人生なんて誰も予想できない素敵なことだらけなのに、素敵さには目もくれず、リスクにばかり目がいってしまう。使い方によっては思考の幅を著しく狭めてしまい、豊かで自由な発想をできにくくさせてしまうのです。こんな脅迫めいた言葉をかけ続けられる人はとてもかわいそう。場合によっては新しい発想をしなくなったり、頭でなにか考えることをせずにマニュアルばかりを読み漁るようにさえなってしまう。今の世の中がそんな感じにも見えているのは僕だけだろうか。

        ちなみに私たちの事業所の仲間たちは元気いっぱい。古い文化にとらわれず、常に柔軟な発想と多様な価値観を認め補い合いながら、新しいことにチャレンジしよう!少なくとも私はいつもそのように言っている、はず。

        話を元に戻しますが、いろいろなことにチャレンジできなくなることをとても恐れていた僕、タケルさんの「自宅でコーヒーを飲みたい」の実現も決して諦めなかったのです。粘り強く上司に問いかけ、同じ価値を共有できる仲間を募り、地道に理解者を増やしていきました。その努力が功を奏し約半年もの月日をかけ、ようやっと実現の許可を取り付けることができたのです。

        タケルさんと互いの努力を喜び合い、あきらめない気持ちが大事だね!と手を握り合ったあの日、忘れない。。。

        そしてついに私の今の活動の原点となる、とてもつらいあの日を迎えることになります。タケルさんと喜びあったその1週間後のことです。「コーヒーを自宅で飲みたい」と言ったタケルさんの夢は、一度も実現されることなく、ある朝タケルさんは急に天国へ逝ってしまわれたのです。


        次回最終回へとつづく

        | 心のひろば | 井上信太郎より | 11:54 | comments(0) | - |
        2020年2月 井上信太郎より
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          原点回帰 タケル(仮名)さんと

           

           これまでたくさんおじいさんおばあさんとの出会いがあり、そして別れがあった。

          中でも現在福祉の仕事に携わるうえでの責任感と、使命感を感じさせてくれたのが、タケルさんとの出会いでした。

          それは私がまだ26歳、特別養護老人ホーム(以下特養)で副主任として働いていた時のこと。

          タケルさんは今の要介護認定でいえば要支援1程度の状態で、かつ精神面での自立度も高く、自分自身の意見をはっきりと発言することが出来る人でした。

          周囲の説得なのか、ユートピア伝説を信じてしまったのか、入所理由がよくわからない謎の入所となった。

          そんなタケルさんは入所1ヶ月もたつと特養という環境に次第と不満を抱くようになり、「退所したい」と口にすることとなります。

          タケルさんの状況から言えば当然の訴えなのだけど、いまさら...。

          入所の決断を誤りであったと悔やむタケルさん、当時フロアリーダーである私に毎日のように辛い表情で訴えかけてくるのです。

          しかし時代は措置制度下、そうそう簡単に入所も退所もできません。

          僕がしたことはなかなか難しいねぇとお茶を濁すような会話だけ、あまりに僕たち職員の態度がつれないため、さすがのタケルさんも退去は叶わないのだという現実を受け入ざるを得なくなっていきます。

          当初の元気もりもりで、はきはきとした表情は曇りがちとなり、施設という環境に慣れようしているかのようにすら見えました。

          自分でできることまでスタッフに頼むようになるなど、スタッフに依存してしまっている?という状態になりかけたタケルさんですが、ある一つのことを私に懇願するときだけはかつての意気揚々とはきはきした姿を見せてくれるのです。

          それは「自宅で、自分で淹れたコーヒーを飲みたい」というもの。

          今の私の事業所であれば簡単に実現できる望み。

          だけど、措置制度下においてはいったん入所させた人を一時帰宅させるなどの前例もなく、高いハードルとなって立ちはだかります。

          私自身に置き換えて考えると、自宅で淹れたコーヒーを飲むなどということはあまりにも当たり前の話。

          あえて人に懇願してまで実現させたいと願うようなことではない。しかし私の職場においてはそんな当たり前と思えるようなことですら、実現することができない。

          私は一人の介護職として、介護とは何か?支援とは何か?個別援助計画や自立支援とは、だれのために、何のためにあるのか?と悩みを持つ日々となり、だんだんと自分の仕事に自信が持てなくなってしまうのです。

          このままではいけない、そんな情けない自分でいるのは嫌だし、何より僕は曇りがちな表情のタケルさんより、「コーヒーを飲みたい!と言っているタケルさんのほうが断然好き。

          もしもこの言葉すらタケルさんから出なくなったとしたら、タケルさんも僕自身もきっと納得のいかない未来になってしまうのではなかろうか。

          そんなことが怖くなってしまったのです。

          そして僕は一念発起し、「自宅で、自分で淹れたコーヒーを飲みたい」この言葉の実現に向けて動き出すこととしたのです。

          以下次号へ

          | 心のひろば | 井上信太郎より | 14:26 | comments(0) | - |
          2020年1月 井上信太郎より
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            | 心のひろば | 井上信太郎より | 16:01 | comments(0) | - |
            2019年12月 井上信太郎より
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              パーソン・センタード・ケア

              医学研の友人中西三春さんからこのようなシンポジウムのお誘いをいただいた。【東京都医学総合研究所 国際シンポジウム 認知症と共に生きる人へのエビデンスに基づく地域型アプローチ:世界的な研究知見の統合】なるもの。中西さん自身もシンポジストとして、「ユニバーサルなプライマリケアとしての認知症ケア:基本となる緩和ケアの東京版在宅介護プログラム」についての発表がありました。

              日本でも何かと話題にあがる認知症ですが、実は国際的にも注目度の高いテーマになっています。ここでも世界共通の理念として、パーソン・センタード・ケアが提唱され、中西さんもその実現に向けた取り組みを研究者としての立場から発表されていました。

              パーソン・センタード・ケアとは、認知症をもつ人を一人の“人”として尊重し,その人の視点や立場に立って理解し、ケアを行うおうとする認知症ケアの考え方です。本来ケアを必要とするすべての人が尊重されるべきで、認知症の人だけが尊重されていれば良いというものではないのだけれど、これまでのケア文化を振り返ると認知症の人の尊厳は侵されがち。パーソン・センタード・ケアは言うは易く行うは難しないのです。

              私がこの仕事に出会った30年前は、認知症はまだまだ珍しい病気でした。2025年には高齢者の5人に一人の人が認知症を持つといわれ、もはや人生100年時代を生きていくうえで避けては通れない、誰しもが経験をする身近なものとなります。認知症をよりよく理解し、受け入れていくこは重要な課題です。

              今回中西さんのパーソン・センタード・ケアをもとにした在宅生活を支援するための研究プログラムに触れて、実践者として身が引き締まる思い。研究は実践してなんぼです、我社の素晴らしいスタッフたちとともに地域に広め、地域の理解者を増やしていかなくてはならない。そう、心の中でつぶやきました。

              みなさん、仲間たちのホームページのURLです、ぜひ覗いてみてください。

              http://www.igakuken.or.jp/mental-health/

              | 心のひろば | 井上信太郎より | 16:03 | comments(0) | - |
              2019年11月 井上信太郎より
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                街を冒険(徘徊)する

                 

                私は街を徘徊する。

                例えば上野のアメヤ横丁に行くと、まずはあてもなくうろつき始める。独特な発声で客を呼び込む魚屋さんや、一体どうすればこのような価格になるのか、価格崩壊?ともいえるスポーツ用品店などを横目に、時には立ち止まって気になる店舗をのぞき込む。しかし目的は行きつけの洋服屋に寄ること。そこでは顔見知りの店員さんと新商品について談義をする。生地の生産地や製造過程について説明を聞いたり、ブランドやデザイナーのこだわりについて話を聞くのだが、どれも魅力的なものばかりで、あれもこれも欲しくなってしまう。気に入ったものをすべて買うわけにはいかないため厳選しなくてはならない。この苦渋の決断をするにあたり、店員さんに対してなのか、ブランドに対してなのか、あるいはコストに対してなのか、よくわからないリスクと戦っているかのような感覚がある。そうこうして私の手に収められる至極の一品なのだが、いつも妙な心持ちで街を後にすることとなる。戦いの後の安ど感?なのか、あるいは自分の判断に対しての後悔?なのか、胸を張って満足げに歩いているが、なぜか足を引きずっているような。この感覚はまさに冒険!の後のよう。

                 

                日テレの人気番組で「はじめてのおつかい」というものがある。幼児が街へはじめての一歩を踏み出すという感動ものの冒険番組である。意気揚々と小さな歩幅でスーパーへ歩もうとする子供の姿。もちろん道中は山あり谷ありで予想もつかないトラブルが立ちはだかり、見ているこちらはハラハラドキドキの連続である。

                 

                人は冒険をする生き物なのだと思う。子供であれ大人であれ、リスクのない冒険など存在しない。「はじめてのおつかい」の様に最善の安全対策が取られた番組であったとしても、視聴者は子供の一人歩きにはハラハラするのだ。‟街”の中にはたくさんの乗り越えるべき課題がある。それは時に人命にかかわる重大なものもある。小さな歩幅でつかんだ大きな幸せに、私たちは涙し感動せざるを得ないのだ。

                 

                そう、街には人間が人間らしく生きていける健康で文化的な生活を送ることができる幸せで感動的な居場所がたくさんあるんだ。それぞれの人にとって大切な、誰からも奪うことのできない‟私の街”。この街を、高齢者であれ障がい者であれ、あるいは認知症を持ったとしても、いつまでも冒険(徘徊)することができるようにしなくてはいけないなあと思う。誰もが我が事としてとらえ、地域で丸ごと考えることができれば、きっとそんな当たり前のことは不可能ではないはず。(※厚生労働省「我が事・丸ごと」地域共生社会の実現に向けて)

                 

                さて、いろいろと言い訳がましく伝えたおじさんの上野の一人歩き、皆さんに感動を届けることはできただろうか。あるのはやはり妻の冷ややかな目だけ...(笑)

                | 心のひろば | 井上信太郎より | 16:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
                2019年10月 井上信太郎より
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                Just Culture(非難から対話の文化へ)

                 

                テレビのワイドショーなどを見ていると、個人や組織に対して説明責任を持たせ、うまくいかないときには非難したり責任を押し付けたりして、人が立ち上がれなくなるまで追い込む場面を目にする。そんなことをするニュース番組に、最近ではすっかり興味を持てなくなってしまった。僕はもともと人が責められるだけの様子を見たくないのかもしれない…

                 

                こんな前置きをしておきながら、実は先月から介護事故ゼロ運動を始めました。しかも、事故を引き起こしたスタッフは、無事故日数をストップさせただけではなく、名前まで掲示されてしまいます。まるで人を責めているかのようにもとれる取り組みですよね。これにはスタッフも驚いて、犯人のつるし上げか!などの意見も出たようです。スタッフにそう思わせてしまったのは残念、まだまだ対話より非難、という意識が強いのだろう。

                 

                私がこれまで目指してきたことに、誰も排除されない社会を作るというものがあります。ここには当然認知症や障がいを持った当事者をはじめ、スタッフの一人一人も含まれます。非難だけでは排除しているのと一緒ですよね。事故ゼロ運動のそもそもの目的は、事故を無くしたいということであり、非難をして特定の個人を責め立てることではないのです。事故はだれだって怖い、だけどその経験談はチームの話し合いにはとても有益なはず。チームで、良いことも悪いこともオープンにして、事故を無くすために事故の当事者を交えて話し合うことが大切なのではないだろうか。乗り越えるべきものがあるならば、当事者だけではなく、チーム全員で乗り越えるものでなければならないと、そのように思うのです。

                 

                孔子の言葉に、「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があります。人を憎まず罪を憎め、とも言い換えられます。罪をしっかり憎むことができないと、事故って無くならないんです。これはもはや精神論ではなく専門性の話。たくさんの利用者さんの生活や人生、そして命を守るために、私たちは今日も心を通わせ合いながら対話し続けます。

                | 心のひろば | 井上信太郎より | 15:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
                2019年9月 井上信太郎より
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                  あたりまえの幸せ

                   

                  私が福祉の仕事に携わったばかりの頃、深く印象に残り心に刻まれた曲がありました。それは小谷美紗子さんの『Gnu』(ヌー)という曲です。この曲は冒頭次の歌詞から始まります。

                  「あたりまえの幸せを僕は忘れているのです、僕は立って歩ける。

                  立って歩くということは私にはあまりにも当たり前。だけども当たり前でない人もいる、そのことにはすぐに気がつきます。さらに歌詞は次のように続きます。

                  「たくさん持ってる僕の中からひとつあげた、たくさん持ってない人に手を貸しているつもりだった、たくさん持ってない人はその中からふたつくれていた。あぁ、僕ははずかしかった」

                  とあります。福祉の専門職として考えるならば、支援(手を貸す?)を必要としている人にひとつ支援すると、必ず目の前の方が適切か不適切かを応えてくれる。それこそが専門職として成長の場となるので、ひとつ頂いたことになります。ただ、もうひとつ大切なものをもらっていて、実はかかわりの中で、人としての在り方を教わるのです。支援者としてかかわるときにはそもそも専門職として高いものが求めらますが、介護は手技だけではなく精神性も大きい。僕らは人生の先輩からすればあまりにも未熟。いくら手技にこだわっても精神性において私達の心の内側は見透かされ、例えば嘘の笑顔なども見破られているのもの。

                  僕がまだ20歳くらいのころ、失敗に打ちひしがれたまま作り笑顔でケアにあたったとき、寝たきりのおばあさんが震える手で頭をなでてくれた。同僚の慰めなどなんの効果も示さなかったのに、その瞬間僕はすっかり救われてしまったのです。たとえ寝たきりでも、その震える手で救えるものがあったのです。今の僕がその証明。今の自分があるのはそれら数々の宝物のおかげなのです。そんなわけで今僕はこの福祉の仕事に出会えて幸せ。ひとつなにか差し出せばたくさんのことが帰ってくる仕事だと、今は知っているからです。今立って歩いている、その足で精いっぱい歩くことができる。見返りを求めず、持っているものをひとつ差し出せばおのずと持ちきれないほどの幸せが返ってきます。まずはこんな当たり前なことに感謝しながら、これからの一年をコツコツ歩もう。そんなことを考えた48回目の誕生日でした。数々の激励と祝福のメッセージをありがとうございます、この一年間でしっかり返していこう。

                   

                  | 心のひろば | 井上信太郎より | 08:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
                  2019年8月 井上信太郎より
                  0

                    認知症の世界

                     

                    認知症をもつと「お風呂に入りたがらないAさん」などと呼ばれることがあります。私が介護の仕事に就いた30年前のことを思い出してみると、ぼけている人はおかしなことを言うものであり、入浴拒否があって当然。だけど介護職としては何とか入ってもらわないと困るので、「衣服が汚れているので匂いますよ!」と説得したり、「ちょっとお出かけしましょう!」と嘘の誘いをするなどして、半ば強引にAさんにはお風呂に入っていました。ご本人の声に耳を傾けるどころか”面倒な人”として扱われ、ケアが流れ作業的に右から左へと済まされていたように記憶しています。このように、かつて認知症の人はおかしな行動やおかしな言動のある人と思われてきたのです。そのようなことから当時は『ぼけ老人』という言葉が使われたり、『痴呆』という言葉が使われてきました。痴呆とは愚かな人という意味があります。今はその言葉は見直されて『認知症』と呼ぶようになりました。『認知症高齢者』などと呼ばれることもまだありますが、認知症は高齢者だけに限らないため、現在では『認知症の人』と呼ぶことが一般的になっています。間に「の」が入るのと入らないのとではずいぶん印象も違いますね。ここで気を付けたいことは、「認知症」という部分に焦点をあてるのか、それとも「人」に焦点をあてるのかで、私たちのケアの方向性が大きく変わってしまうということです。

                     

                     認知症の人

                         or

                      認知症の

                     

                    この左側の認知症という言葉に注目してしまうと、認知症をおかしな症状として捉えがちですが、右側の「人」の部分に焦点があたることによって、その人の生活背景や、性格、本人のこだわりといったところに視点が向くのです。ちなみにヨーロッパでは認知症の人のことを次のように表現します。

                     「認知症の世界を体験している人」

                    「認知症の世界を体験している人」この認知症の世界とはどのようなものなのでしょう、皆さんも興味や想像力がわいてきませんか?興味を持つことができたら目の前にいる認知症の人にその世界について尋ねてみてください。その際にはゆっくり丁寧に、誠実に、決して馬鹿にしたり訂正したりしないで、その世界は楽しい世界なのかそれとも辛く悲しい世界なのかを直接本人に聞いてみてください。聞き方次第で私たち健常者が経験をしたことのない認知症の世界についてご本人が語ってくれるかもしれません。私もこのようなことを心掛け日ごろから認知症の人とかかわっているのですが、その世界に触れたと思えた時に涙があふれてしまうことがあるんです。恥ずかしいので理由は言いませんが(笑)、ただ一つ思うことは認知症をもたないと経験することのできない世界について、もっともっと深い理解のある社会を目指さなくては!ということです。思っているだけならば誰にもできますね、私たちに求められているのは行動を伴った実績、がんばろう。

                    | 心のひろば | 井上信太郎より | 10:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
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